2011年9月12日月曜日

ジエンドを斜めから見下ろすひよこ脳トレーニング

史上最高の速度で出前をする出歯亀もどきの皮肉屋三河屋。ちわーっすと言ったその0,02秒後には、彼の中の消しゴムの中のパラレル頭脳ワールドが目映い光を放ちだし、全ての亀は腸捻転を引き起こし、歪む阿呆に見る阿呆といった案配を見せるおばあちゃんの顔に2万本刻まれた皺々のひとつひとつに子守唄を聞かせて永眠する阿呆がよ。いるよ。いないでよ。来ないでよ。いや行くよ、くるよ、今師匠たちの踊りを僅か眼下2マイル先に眺めつつ、実験によりひからびた空豆の胎児達は、実のところ単なるひよこ豆の成長した姿であり、その豆にわとりのお姿をお畏れお多いとおお思うのでおおおった。
連続する言葉と連続しない心がよ、どうにも噛み合ないことを侘び寂びと呼ぶんだならば、メガネを入れるケースの事をジエンドオブジェネシスメガネレボリューションターボタイプケースDと呼ぶとは考えにくい事は、空に浮かぶアゴ入道雲達の生き様を活写するが如き写生の天才筆婦人ターボタイプDに畏敬の念を惜しむ前に、アゴ割れすぎて死亡。
君は死に顔がキレイだ。ガラス細工のばい菌のようで。それはそれは、肺胞醤油漬けの一つ一つをプチプチと潰していく作業専門の作業員コスプレ姿の露出狂のイタリア女にはうんざりしていた所だ。なぜだかわかるかい。わからない我かい?我わからない思わない何も感じない故に我なし。とっても我無し。とってもとつつてもなくく我がない状態というのは、五次元上に、つまり君が考える二万五十次元上に、三次元空間的縄文式土器の展開図を描くが如き空恐ろしさを抱えているので、宇宙の膨張のこといや、うちうのぼちちょうのことを考えて頭おかしくなって、脳みそがくるぶし辺りに移動する毎日に辟易する味噌爺いの妖怪談義を再収録する毎日。
徒然なるままにつったってよ、徒然なるままでないことなどないのだから、ふて腐れてひよこ豆を投げつけるのはやめたまえよ、人とひよこのあいの子よ。今まさに、パラレルが現出しているかい?それはそうと、ひよこの原罪はなんだい?パリサイ派の諸君よ。ドライパセリが目に沁みて、目やにが溢れ出て、尚かつ心からは心やにが溢れ出て、愛と相まって地球を、いやちきうを包み込むんだよ。目には見えないだろう。脳には見えるだろう。脳科学者は現代科学の生んだ悪鬼あるいはひよこだろう。やめろやめろ、人脳科学者よ、ひよこ豆を投げつけないでくれ。ぴよぴよとうるさくて、成長したら豆にわとりだよ。

2011年9月9日金曜日

逸脱した生殖器

俺の考えている事がわかるお前はエスパーと呼んで抱きしめてやろう。抱きしめて皮膚の温度感じたら、魚を掴んで火傷させた事を母なる海に謝って欲しい。
彼らは海だ。海と言うにはあまりにも大規模で所在無さげだろうか。それよりもより原義的な意味での海のような顔面ウミウシ師には、祈祷師のような神聖さと、ゴト師のような狡猾さと、詐欺師のようなATM横の「検挙しました」にご協力ありがとうございましたの感謝の念を惜しまなさをすべからく持ち続けてもらいたいものだ。
すばらしい風味で味付けされたすばらしく哀しい思い出をポケットに詰め込んだ上で、焦土と化した荒野を駆け巡る赤血球と言う名の馬グロビンにご乗馬し、ヤブサメなさるが如き赤子の如し源頼朝&平清盛は、日本最古の漫才師兼詐欺師協会所属の宣教師であったとかないとか神は死んだとか。
そのようにフロッピーディスクを大いに口に含んだ上で、あげぽよさげぽよ宣わないでくれ涎を垂らさないでくれ。触らないでくれと言われれば言われるほど、豊満な肉体には触りたくてたまらない欲求が増幅すればするほど、赤血球中の馬グロビンの上昇と、東京タワー先端の曲がり具合が比例して時々オトンが夢の中へ藻を食みながら出てくるのをひたすら溶解液を吐き出しながら眺めていたいのだ。
その先の未来へ行きたいか。その先の未来が非常口無しの問答無用のモンド・ザ・ワールドだったとしても、後悔はしないどころか常勤スタッフになりたいか?モンド王国苫小牧のファン藻ジー喪ンドのスタッフ兼スモッフとして30年間勤め上げた彼の記憶はもう8巡目にさしかかり、つまりは彼は24000年の月日を生きている計算になっているが、そんな事は元素記号が240000個あることと関係はない。だって、私にとって彼は他人どころか他ッペルゲンガーの始祖限定バージョンだったのだから。
さあさあ、ほら気を取り直してほらお食べ。僕の遺灰をお食べ。僕の耳を貸してあげよう。その代わり返してよね。返却期限までにあの図耳室の椅子でいつも眠り腐っているホームレス芳一に言ってよね。ほら、スタンプが27個貯まったら27つ目の角を曲がって我々共同体所有の耳塚に辿り着く事でしょう。
でも、共産主義者の憂鬱を慮っている余裕がないほど、パンを3つも4つも貪り漁っているのは、27kmの道のりをひたすら匍匐前進した事を鑑みれば致し方の無い状況であり、あまつさえ逸脱したのは我々の大いなる生殖器だろう。
右目で左目を見つめないでおくれよ。石化しちまうよ。登山の前に金の針は持ったかい。保ったかいテンションは。天昇すれすれでね寝しょんべんも恥ずかしがらずにね駆け巡ってよ血管。逸脱してよ生殖器。僕の馬グロビンよ屠殺されかかっても半分生きてね。

2011年2月8日火曜日

パンをこねている間に 自然死

ありとあらゆる地球上の存在が死滅した後でも、キリンの霊魂だけは、そこら中をふわふわ漂っているという。
キリンに似た顔の構造を持った人間も、時としてそこら辺の草を食む事があるという。しかしそこら辺の草を食う際には、食中毒は元より、近所の散歩をしている犬の小便がかかっているかいないかを常に確かめなければいけない。
今では時代遅れ感の否めない健康法として飲尿をしている人間でなければ、小便のかかった草を食むのはできるだけ避けたい所だし、未だに飲尿法を実践しているご近所に住まわれている池田大三郎にとっても、自身のではなくどこの馬の骨ともわからぬ馬の小便の付着している臭い草を食むハメになるのは、70歳以上の老婆のみで運営されている風俗店が隣家として建てられるハメになるくらい遠慮したい所であろう。
そもそも、動く夢を見たのは久しぶりだ。最近の夢は、いつも静止画で、窓もなく殺伐としたコンクリート打ちの部屋の中央に壊れたカセットプレイヤーが置いてあるだけのつまらないものだった。しかし、今日の夢の中に現れたのは身の丈20メートルはあろうかという巨人であろうか。久方ぶりにそんなわくわくする夢を見た時のわくわくさにより右目が飛び出してなくなってしまったのではないかというほど、僕の右肩からものすごい本数の肩毛が伸び出してきた。そうなればやはり、この肩毛をどうにか自発的に伸ばすコントロール法を身につけて、肩毛を薄毛に悩む全ての大人たちに売りつけてやるのが、生粋の商売人家系に生まれついてしまったものの宿命であるはずであり、もはや寂寞感しか感じられぬそのような宿命に対する呪詛の言葉をツイッター上で呟き続けるのが、彼のお家芸とも呼ぶべきキリンの物まねであった。
しかし、そんな彼に皆が期待すればするほど、天の邪鬼な彼と来たら、いつもそのような期待感には背いて、殺人の是非を論じ続ける民間の裁判員たちの頭上20センチほどにまで垂れ下がっている金色のロープを引いてみたくてたまらない様子なのだった。

2011年2月6日日曜日

ノイズは決して怖くないず

はい。そういったわけで、れびゅう1発目。
『We Don't Care About Music Anyway...』です。3日前くらいに渋谷ユーロスペースで鑑賞。
                                                          予告編

怖そうな映画ですね。そうです。ノイズ音楽についてのドキュメンタリー映画です。
『東京、音楽番外地へようこそ』という何やら禍々しいコピーがついております。ウーン、怖そう。
しかし、これは声を大にして言いたいのですが、「ノイズ、怖くない」。これはもう本当に言いたい。声を大にして、ジローラモあたりにも言ってほしい。

怖くないから、試しにノイズを聴いてみてご覧。ほら、ジローラモもこっちにおいで。
とりあえず、怖くない証拠をお見せしましょう。

まず、水着のきれいなねえちゃんも、ノイズします。
                                                        umi no yeah

ほら、ぜんぜん怖くない。ムシロかわいいし、ファニーですね。
僕も最近知ったんですが、彼らは「umi no yeah」というバンドです。映画にも出ています。
『竹久圏(KIRIHITO/Group/younGSounds)と女優の嶋崎朋子による常夏トロピカル・ノイズユニット』(http://www.myspace.com/tommysimmyjakie)とのこと。
「トロピカル・ノイズ」ですからね。怖い訳はありません。
ちなみに、竹久圏という人のKIRIHITOという方のバンドは、フツウにかっこよい。 

                    KIRIHITO

はい、ねえちゃんがノイズすると思えば、一方ではただのおっさん(銀行員と公務員)も、ノイズします。

                   Incapacitants

映画には出ておりませんが、世界のIncapacitantsです。
彼らのライブは衝撃です。絶句します。会社生活で感じているであろう日々のストレスを、これでもかというくらいに発散しまくります。
でも、やはり、もはや、かわいい。まったく怖くない。
実際、僕も一度だけ彼らのライブを観た事がありますが、終始顔が緩みっぱなしでした。自然と笑みがこぼれます。必見です。
世のサラリーマンはみんなノイズバンドをやるべきではなかろうか。ストレス解消にはもってこいだと思います。

どうです。ノイズ音楽、悪くないでしょう。
見世物小屋感覚で、色物見る感じで、ライブを見に行ってもいいと思うんです。
「おー、ねえちゃんきれいだな」とか「うわあ、おっさんいっちゃってるなー」とか、最初は宴会の催し物見る感覚で見たとしても、いずれハマる事請け合い...
いずれにしても、そういうの面白がれる感性、大事と思います。
子供の頃はもっと純粋に色々と楽しめていたはずなのに、ぼくら大人になると、「怖そうだから」とか「どうせ自分にはわからないから」とか勝手に萎縮しちゃって、せっかくの面白いものおいしいものに触れ合う機会を逸してしまいがち。
そんなのはつまらないですよ。
もっと、そんなつまらん既成概念とっぱらって、子供のように純粋に、何でもただ面白がってみればいいんです。
ゆらゆら帝国の坂本先生が言ってましたけども、彼らの曲も親戚の子供らに聴かせたら、すぐに気に入って覚えて口ずさんじゃったというエピソードがあるらしいです。
大人が敬遠してしまう音楽も、意外と子供には楽しいと思えたりして、受けたりするんですよね。


ほら、左上で子供も笑いながら見ていますよ。
HMV渋谷店が無くなるのはほんとうに悲しい事なはずなのに、非常階段大先生がまさかのインストアライブを決行する事によって、みんなが笑顔ですね。

おわかり頂けたでしょうか。
こういったノイズ音楽は、ちょっと怖そうだったり難解そうで取っ付きにくそうに思えるが、そうでもなくて、むしろファニーでかわいい面があるのです。
まあこの話もすごく奥深い話で、音楽だけに関わらず、美術作品とか人物像とかへの「イメージのズレ」つまり「人それぞれが抱いているイメージの差異」っていう問題につながるっぽくて、とても興味深い。
「イメージのズレ」についての話も、まあ追って記述していきたい。

さて、この時点で肝心の映画れびゅうについては一向に触れていないことに気づいて頂けたでしょうか?私も今、気づきました。
まあ、説明しづらい映画なので、とりあえず奥義、抜粋。

『東京、西暦20XX年。押し寄せる人ごみと騒音。鉄道が轟音をたてて通り過 ぎ、パトカーはサイレンをけたたましく鳴らし、街ではスピーカーが絶え間なく注意を呼びかける。催眠術のような数多くのメッセージが、あらゆる逸脱を押さえ込もうとする。
坂本弘道、大友良英、山川冬樹、L?K?O、Numb、Saidrum、竹久圏、嶋崎朋子はそこにたいした注意を払わない。彼らはこうした音に囲まれて育ってきた。それがスピーカージェネレーション、振動板から生まれた音とともに育った世代。
都市のノイズは、音楽というプリズムのなかで新たな輝きを放つ。
本作は、東京で新しい音楽を生み出す8人のミュージシャンと日本の大量消費社会を結びつけ、対峙させたドキュメンタリー映画である。そして音とその知覚についての探求の映画でもある。
8人のミュージシャンがたゆみなく追求し続けるものは、音楽言語にまだ成りきっていない未開の音、本能的な音である。それは都市の音そのもので、滅菌され、フォーマット化された、東京の日常に遍在する音である。
都市の生み出す騒音や雑音が、ノイズミュージックと混じり合って轟音のうねりを巻き起こし、爆音の極点へと達する時、視覚と聴覚を極限まで研ぎすませた観客の眼前に、新しい東京の風景が広がる』(http://www.wedontcareaboutmusicanyway.com/ja/introduction/)
デス。

純粋なドキュメント映画でもなく、アーティストのライブシーンや彼らの議論/談話シーンやインタビューシーンと駅や雑踏それにゴミ集積場など東京の風景のシーンなどがカットアップ&マッシュアップされてできた、それ自体音楽のような映画です。

アーティストたちもノイズミュージックを奏でますが、東京の街も日々騒々しいノイズを生みます。
当たり前に溢れすぎているので、単に街を歩いているだけでは、殆ど意識していないのですが、街にはノイズが溢れまくっているのです。
こうやって改めて映像で提示されるとよくわかります。
東京はアナウンス過剰な街。余計なノイズで溢れかえっています。駅のホームの注意喚起も過剰だし、あろうことか渋谷や新宿では「神は許します」のアナウンスが流れるスピーカー付き立て看板を持った不機嫌な顔のガキお子たちが。。。

東京で生きている以上、様々なノイズに取り囲まれるのは、もはや避けられないでしょう。だから、自分にとって何が必要で何が不要な音なのか峻別することが大事です。そして、不要な音には注意を払わない事が大事です。いや、むしろ一番の理想はこうです。

街中の余計なノイズは脳内変換して自分だけのファニーでかわいい必要大事なノイズ音楽にしてしまえ!→特にサラリーマンはその変換したノイズ音楽を、実際にノイズバンド組んでステージで奏でてしまえ→みんな笑顔→幸せ
という図式が最高。
垂れ流されるだけじゃ、ノイズ、もったいないもの。有効活用しなきゃ。
音のリサイクルですよ、これは。
なぜエコエコ叫ばれている割には、音のエコに関してみな無関心?
音ってのが抽象的で実体のない物だから?実体のない物はリサイクルできないとでも?
ほんとうにみんな即物的なんだから!ケモノ!

ええ、ケモノと言えば、最後にこの人。
L?K?O?さんに「ライブ中はアニマル」呼ばわりされていたこの人の映像で締めくくりましょう。



山川冬樹さんです。ホーメイと骨伝導マイクと足シンバル。どちらかと言えばアニマル寄りです。ちなみに、お隣は蛍光灯を楽器にしてしまった伊藤篤宏さんです。好きこそものの上手なれ。

長髪のアニマルが二人。六本木スーパーデラックスです。僕の今の所の生涯ベストライブでした。身の毛がよだった。
皆様も、ぜひファニー&クレイジー&デラックスなライブ、ご体感してくださいませ。ませ。
ところでお後よろしく記事終わる。

2011年2月5日土曜日

蘇れ 記憶

ブログ始めて2日目。
三日坊主というように、昔から何かと3日経つと飽きてしまうものだが、逆に言えば2日目が最もノリに乗っている時期なのである。
だから、今まさにそう。ブログにつきものである事は、何でもやってみたい時期である。手はつないだし次は何をしようかと思案している。

だがこの熱も、明日になれば冷めきっているのだろうか。熱しやすく冷めやすい人種が多くなっている。私もそんな人種の一人なの?ツイッターやらが台頭しているように、何にでも簡便さや速度が求められるのがこの時代。熱意も速度を増して、ツイッター的にあっという間に過ぎ去ってゆくとしたら、悲しい。

さて、やはりブログにつきものであるのは、れびゅうである。レビューレビュー。何度も言いたくなる甘美なこの響き。この響きに妙に感応してしまう我が神経の過敏さも、ブログ2日目の熱意ゆえ?マチュピチュ。ナツメグ。ハーモニーコリン。ドブロク。ダブロク。サムライミ。サムライミ。サムライミ。キルスティンダンスト。

であるからして、本日から「さかのぼり何かしらレビュー」をしてゆきたい。隙を見ては。当然、ブログを始めた昨日までに観た映画や聴いた音楽やマンガやら展覧会やら色々が、れびゅうなどされぬまま山積しているのである。
それらを可能な限り、記憶の許す限り、むしろこの際少々の記憶違いも良しとして、時にはその間違っている方の記憶を正しい方と誤解してすり替えて、れびゅうしていきたいと思います。
れびゅうしたり語られなければ、曖昧な記憶としてしか留まらず、わりと早く忘れ去られる運命の作品も、こうして感想などを記述すれば、いくぶん強く印象に残る。もしそのとき限りで例え忘れてしまったとしても、このブログが残っている限りは、もう一度参照して思い返す事ができるのである。便利。
せっかく鑑賞した良き作品の記憶や触感を、もっと自身の作品や人生に活用したい。その為に、れびゅうはとても有効であるに違いないので。
続く

2011年2月4日金曜日

ブログ始めてシャイ脱却療法

ブログ始めてしまった。
その事が既に恥ずかしくもあるが、なぜブログを始めたかと言えば、恥ずかしみという感情を克服したいのです。そして、矛盾するのだけど、自分をさらけ出したい衝動に、急に駆られたからでもある。

今まで色々と恥ずかしかったんです。何をするにも忌まわしき「シャイネス」が付きまとい、「シャイネス」のせいで色々と失敗したりもした。「シャイネス」に振り回される26年間でした...
そんな時はいつも、こんなとき自分がアメリカ人なら良いのに・・・と願ったりもしたが、実際に翌日起きてアメリカンになっていることはなく、絶望した。今考えると、実際に翌日起きてアメリカンになっていれば、そちらのほうが絶望する事山の如し、山には山賊多き事山の如しであるが、とにかく日本人的な「シャイネス」や「奥ゆかしネス」というものも必要だけれど、それだけではいけないのです。なぜなら、「シャイネス」は時に「かっこつけ」と同義だからです。やはり「かっこつけ」は良くない。自分をさらけ出していないもの。平たく言えば、嘘を言っている。具体的に言えば、岩井俊二や浅野いにおの作品を見ているときに感ずるあの違和感を思い出してみましょう。むずがゆい。

おいおいかっこつけるな!姿勢よく座れ!マイクちゃんと握れ!みたいなね。
そういうの、わりと嫌いなんですから。

話がずれますが、彼らがどちらかはまだはっきりとはわからないんですけど、かっこつけ君にはタイプが2種類ございまして、かっこつけていることに自覚がない「天然かっこつけ」タイプと、確信を持ちながらかっこつけて我々を騙しにかかる、青年実業家だし優しいしイケメン、この人と結婚したいわ結婚しましょう夢の新婚生活だわウフフ→3ヶ月後金もって行方くらまされる結婚詐欺師常習犯的な「確信的かっこつけ」タイプとあるわけです。
前者はかわいげありますが、後者はたちが悪いです。後者でも、別に職業が普通のサラリーマンとかであれば、自分が関わらないようにしていれば問題ないのですけど、漫画家とか映画監督とか作品作る人が後者だとね、そこにお金が発生している訳ですから。だまくらかしてお金とっちゃってるわけですからね。たちが悪いですよ。
(おそらく、浅が前者で岩が後者ではなかろうか。→浅の天然ぽさがわかるインタビュー。かわいげがある。
おい、特に岩!と思うのだが、まあ映画なんて自分一人だけで作るもんじゃないしね。カメラワークとか構図とかが露格好的(確信的にかっこつけているの意)というのは、少し鼻につくことはあっても、それほど問題じゃないんですよ。問題は台詞とかストーリーそのものがそうであった時。これは、いけない。いけすかない。岩の場合はそういった部分にも露格好臭さ=ザッツ岩テイストがフンダンに盛り込まれている印象を受けますので、やはりいけすかないのです。そのような岩テイストに酔いしれるオシャレ気取りちょいサブカルかじりの男女たちも、まあいけすかなかったりするんですが、彼らにもかわいげがあったりしますし、やはり問題は騙す側にあるでしょう。
おい、岩!もっと自分に正直になれ!あと、マイクちゃんと握れ!あ、ソッチでその持ち方流行ってんの!?みたいなね。
いやはや、大幅にずれましたが、この「かっこつけ論」についてはまだまだ論じがいのありそうなおいしいテーマなので、追跡調査→記述していくつもりです。異論反論お待ちしております。

さて、自分の話に戻る。
そうである。そんな、時には「かっこつけ」にも通じてしまう「シャイネス」などはとっとと捨て去るべきなのである。今まで、なるべく嘘は言わないように生きてきたつもりだが、それだけではまだ温い気もしていて、なにか自分の中で突っかかる物があった。まだ色んな自分を出し切れていない気がした。俺はこんなもんじゃないという思いを常に抱いていたのだけど、その自分をさらけ出す上で、突っかかりとなっているものが一つ「シャイネス」なのではなかろうか。そして、その「シャイネス」を突き破る為に、とりあえずブログで謎に包まれた私生活など暴露しちゃうゾ☆的な思いで、このブログを始めてみた。というように、自分を分析してみた。
こんな自己顕示欲が強いのにシャイな自分。真性かまってちゃんな自分。しかし、ブログなどをやる民は、みなそうであろうぞ。
あ、そうか。そもそもブログをやるきっかけがみんな同じで、自分を見てほしくて構ってほしいけど、シャイだからとりあえずはバーチャルな場で自分を吐露。という図式なのか。なんだ、自分も同じ理由じゃないか。みんなと一緒で安心。みんなと違ったらイヤだもの。
おほほ。妙に合点がいった。ところで、お後よろしく記事終わる。

忌まわしさよりも 羽ばたきを

どぶに捨てたいものがいくつかある。
幼いころの忌まわしき記憶があればそれ。
手術台に縛られて、四方を囲んだ大能面が徐々に迫ってくるという記憶は、忌まわしい記憶以外の何者でもない。
それは夢。現実ではない。
学校の体育ユニフォームが似合う女子学生に萌を感じるのは個々人の勝手だが、学校の体育ユニフォームが似合う能楽師に萌を感じるのはもちろん個々人の勝手である。
体育ユニフォームを纏いつつ、能舞台上からじわじわとにじり寄ってくる能楽師に忌まわしさ以外のものを感じ得ないという世論に真っ向から反論する形となっているのだが、忌まわしいものを目撃したという情報を伝える「忌まわしさ撲滅ホットライン」のコールセンターが開局して30年、未だに入電は0である。
その事実を誰かに伝えたい。そういった事実を伝えるための「忌まわしさ撲滅ホットラインに30年経って未だ入電0である事実伝達ホットライン」のコールセンターが開局10年の節目を迎えることに伴い、しがない一医療事務員が、この度南極点に単独で到達し、あろうことかかの地でアパート経営を始めてしまったというのだから、驚きを通り越して、むしろ忌まわしさ以外の感情を感じることを禁じ得ない。
その忌まわしみの感情の余波は、有料老人ホームに入居している高感度のしゃれっ気老人たちにも伝わり、ネストリアス派キリスト教が中国に伝わり景教と呼ばれたのと同じように、その忌まわしみの感情は老人ホームに伝わった結果、葉隠れ悪人忍法帖の放送開始日が、奇しくも一般人のふりして駆け出す四十路魔あらわる。

話を離婚 相談のことに戻そう。
要は、非常に高感度であるのは原宿を闊歩している若者どもなどではないのであり、むしろ巣鴨を牛歩している老人どもなのではないのだろうか。
海外旅行保険の保険屋が巣鴨に店を構えても泣かず飛ばずであるのは、客の大半は老人たちだろうと見くびり、あろうことか信州バスツアー旅行の保険しか扱わなかったせいである。老人などは海外に行かないだろうと思っているのである。あきれた話だ。
もはや、大学生の20パーセントが65歳以上の老人であるというこの時代。大学の卒業旅行で海外に行くことは多いのだから、そうなれば必然、老人たちもその海外旅行に参加するはずであろう。まったく、いい加減に巣鴨のマクドナルドでサイズを「L、M、S」ではなく「大、中、小」と呼ぶのをやめたらどうだ。
わしは怒っておるぞ。